02.堀内邸と建築
辺りを囲う、不変の自然と
古代から在る建物
かつて瀬戸田には製塩業や海運業を
主に営んでいた堀内家という豪商がいました。
「 Azumi Setoda 」は、その一家が住まう家として明治時代の初期に当たる1876年に建てられた
「堀内邸」を受け継ぎ、誕生したのです。堀内家が事業を始めたのは17世紀の初頭だと言われ、
それから約2世紀という長きに渡って活躍していました。瀬戸田のある広島県の生口島は瀬戸内海の
ほぼ真ん中に位置しているため、瀬戸内海から北海道まで行ける北前船航路を通って塩や石炭を運ぶ
船の運航に適した場所だったのだと考えられます。
堀内邸は建物そのものだけでなく、環境においても、お客様をおもてなしするのに理想的でした。
まさに目と鼻の先にある水面が煌めく海、隣の大三島にあるアカマツ、シイノキ、コナラ、中国の
コルクガシといった木々、古代から存在する神社や寺。不変の自然とスピリチュアリズム。
日本人が大切にしてきたものが辺りを囲み、それらを知り、触れ、感じることができます。
数寄屋造りの思想に基づく
改修、復元
堀内邸は当時、品質、造形において世界的に見ても非常に高い水準だった
京都の大工をはじめとする最高の職人と技術、材料を、全国から集め作られました。
先の通り、建設から約140年が経過していますが、壊れず未だに建ち続けていること、
非常に薄く繊細な障子紙などの細部も復元が可能だったという点は、技術力の高さの紛れもない
証拠となっています。「 Azumi Setoda 」はその生まれ変わりではなく、改修によって復元され、
趣を現代的にした形です。改修を手掛けたのは京都を拠点に活動している建築家の三浦史朗。
数寄屋造りの日本建築の専門家である彼は、現代の多様性のある暮らしと16世紀まで遡る
茶道のルーツに根ざした美学とのバランスを取りながら、これまで様々な建築を生み出してきました。
数寄屋造りは、格式や豪華さを嫌い、質素で簡潔、かつ自然の素材をそのまま使う自由さ、
大らかさを特徴としています。言い換えれば、型や定まった形式がありません。故に、歴史ある考え方で
ありながら、新しい技術を統合することもできる柔軟なフレームワークだとも言えます。
そういったことに基づき、今回の改修は木、石、土といった主要な材料を生き物として扱い、湿気や風、
光などの自然が織り成す環境を考慮しながら進められました。自然物は環境に応じて形態が
変化していきます。この地域は海が近いため、それらを出し入れしたり、日光に当てたり、
または遮ったりする必要が出ます。そのために重要なのが庭の役目でした。
段々と変化を帯びる、パブリックと
プライベートの曖昧な境界
現代の宿泊施設に求められることは、生き生きとしつつも家庭的で快適な雰囲気、先にある体験、
パブリックとプライベートの境界。これらを巧みに混ぜ合わせることが大切と考えます。
元の堀内邸は多くの共有空間をもっていたため、三浦は振り返りをし、いかにその“境界”を作るかを
考えました。
「 Azumi Setoda 」がある通りの向かいには、思想を同じくする「 yubune 」という
宿泊も可能な公衆浴場があります。それは旅籠のような、旅人あるいは生活者にとっての
一時的な休憩所、交流の場としての意味合いをもちます。対して「 Azumi Setoda 」は特別な
客間をもつ旅館ではありますが、レセプションとメインのダイニングルームはパブリックで開かれ、
そこから客室に着く間に中間的な位置づけのセミプライベートエリアを設けています。
一般的な宿泊施設の多くはパブリックとプライベートが切り離されていますが、「 Azumi Setoda 」は
段々と変化していくのです。また、それぞれの客室には専用の坪庭やバルコニーがあり、
パブリック、プライベート両方において、内と外を行き来でき、風と光を通すことができます。
落ち着きと静けさを生み、
風と光を取り入れる“高い”垣根
美的であり、歴史的であり、現代的でもある。三浦の数寄屋造りの精神を体現し、さらには各部屋、
レストラン、ラウンジ、東屋、どの空間においても異なる表情を与えるために大きな
垣根を設けました。「いずれの空間は内であり外でもある」という点に拘るための答えでした。
垣根のインスピレーションの元となったのは、鞠垣と呼ばれる、かつて神宮たちが蹴鞠という
儀式を庭で行う際に用いられていた仕切り。鞠垣は外部との境界を作るために、非常に高く
作られていたのです。
お客様のプライバシーを守り、落ち着きと静けさを生み、風と光を取り入れる。
そのために非常に高く作られた垣根は最善の方法だったのです。