令和三年三月一日

瀬戸田の海に流れ込む、速い潮と穏やかな潮。それぞれが互いにぶつかり合うと、蕨のような渦潮が形成されます。巻き起こるのは、入り江や潮の通り道。海水の満ち引き、潮の流れは月や太陽といった天体の引力、不思議による現象だと言われています。渦潮も、自然が生み出す物語のひとつです。

潮の流れが運んでくるのは、酸素の吸収、放出量の変動が世界的に見ても大きな海域であり、栄養塩が豊富な太平洋の養分、そこで育ってきた魚たちです。かつての弥生時代、その海は中国大陸、朝鮮半島と日本列島間の移動、文物交易の拠点でもありました。さらには瀬戸内海は中国南部揚子江を起点に朝鮮半島から稲作を伴って渡来してきた倭人にとっての、入口的な海区となり、そこから技術、文化が広まっていったのです。瀬戸内海の周辺に住み着いた人々は海人(あまびと)と呼ばれていました。その中でも特に勢力をもち、重要な地位を築いていたのが安曇族。安曇族は大和国と朝鮮、中国大陸の仲介をしていたとも言われています。瀬戸田が位置する生口島でも古墳や陶器といった安曇族に関する遺物が数多く発見されました。今日において、それらのほとんどは見ることができませんが、その痕跡は風景の中から読み取り、感じることができます。

象徴、存在、由来。あらゆる地域は、そういった物事によってひとつの型にはめられ、少々強制的な定義がなされます。瀬戸田の歴史を振り返れば、上述のようになり、それが定義の一種となるかもしれませんが、実際はもっと曖昧なものです。今、この場所に住む人々の人情は世代、場所を超えた関係、交流によって築かれていきました。つまり、中継地点だからこそ、明確に箇条書きできる定義がない。都市のように、定着し発展を促し増築するのではなく、海風が漂うようにあらゆる物事が移い、通過して行く。「Azumi」は、そういった瀬戸田のあり方と同様に多様性を表現していきます。そして、これからも紡がれていく物語に色を加える、お客様をもてなすという無形資産を残し、継続させるための媒体となるのです。

中国、朝鮮からもたらされたものは何でしょう? 例えばそれは「稲作の技術」という言葉だけで足りるのでしょうか? 人々は移り住み、日本にどのように適合していったのでしょうか? 土壌の特定は? 風や星は? きっと大陸間を往来し、日本の中をひたすらに移動し、礎を築いていったのでしょう。そこから1千年以上が経ち、この島は塩の生産や北前船など、物が運ばれる中継地点として栄えたことが知られるようになりました。「Azumi Setoda」の前身である、明治時代の初期に建てられた瀬戸田一とも言われる豪商、堀内家の旧邸宅。その建物、敷地には当時、全国から集められた一流の素材や、京都の熟練の職人によって刻まれた深い爪痕が垣間見られます。そのルーツは今日の改修にも引き継がれ、同じく京都の職人が手がけました。時代と共に築かれたこの地の歴史は、これからもまた新たな層、色を重ね続けていくのです。