暖色の冬の朝

船に乗り慣れていない人は、港と海面を揺れ動く船の狭間に脚を出すことすら少々怖気づいてしまうものですが、船乗りはテンポよく、デッキに乗っていきます。まず船長が乗り込み、ロープを軽々と手繰り寄せ、他の漁師たちも次々と乗船します。

静かな空気。海底の岩場を浮き彫りにするほど透き通った海面。冬の朝日。太陽の光に背中を押されるように、漁師たちはそこから海原へと繰り出していくのです。

港の静けさとは裏腹に、この日の海は荒れに荒れていました。淀みなく出港した船はまるでシーソーのように激しく揺れ、浅瀬の岩に近づきそうになると、漁師たちは鉄の棒を使ってその岩を押しながらバランスを保ち、座礁しないよう慎重に前へと進んでいきます。

夏場の瀬戸内海は凪の日が多いのですが、季節を問わず潮の流れが速く、冬は風が強く吹くため特に船を固定させづらい。例えば、蛸壺を海の底に落として蛸をその中に誘う蛸漁にも不向きな環境なのです。けれども、この時期の真蛸は旬で身の締まりが良く格別。

漁師たちは300mにも及ぶロープを巻き取りながら、レンガ色の蛸壺を回収していきます。お客様には是非とも「格別」を味わって頂きたい。そんな想いもあるため、壺の口から覗かせる長い触手、壺の影の中に潜んでいる姿を発見した時は特に感激します。荒波の中、漁を進めた甲斐があった、と

約80個の壺をすべて回収すると、漁師の一人は船の先端に腰を下ろし、タバコに火をつけました。煙を吐き出すと、まるで子供のような達成感に満ちた表情をようやく浮かべたのです。

荒々しい海から港へ。再びの静寂に戻ると、漁師たちはびしょ濡れのグローブの下で冷えて固まり切った自分たちの手足に気づき、私たちに手を振った後、そそくさとyubuneに向かっていきました。

太陽が真上に昇る前に、池田みやげ店*の前を通りかかると、ネーブルオレンジが入った木箱に囲まれた店先で、店主がせっせと作業をしていました。左手でネーブルオレンジを取り、布で表面を軽く擦り、皮が光沢したのを確認すると、右手で出荷用の箱に収め、また次へ。これもまた傍目で見ているだけで気持ちが良いほどにテンポよく行われ、積まれていた木箱はみるみるうちに低くなっていき、逆に出荷用の箱がどんどん高く積み上げられていきます。

瀬戸田の朝は、こういった作業の律動によって子気味良く時が刻まれ、昼の時間帯へと移っていくのです。

寒い夜を朝日が溶かす暖かい日もあれば、晴天にも関わらず中国山地から抜ける冷たい風や深海の潮流が動き続け、気温を下げる日もあります。そういう日は辺りが暖色に包まれているのにも関わらず、影は長く長く伸びる。

寒いと視覚だけでなく、触覚や聴覚も敏感になっているように感じます。冒頭のように、普段はあまり気に留めない「空気」に、特に注意が行く気がするのです。頭の天辺からつま先まで冷え切り、痺れると、辛うじて温かさを保っている自分の内と外の距離が近くなる感覚。そして、室内に戻り身体が温まり直ると、鋭敏になっていた感覚が柔和になり、環境へと溶け込んでいきます。

冬のディナーメニューは、このような感覚の高まりに着目し構成されています。一皿目のセビーチェと瀬戸貝のスープは、貝殻に盛られ、そのひんやりとした質感を唇に感じながら食べることができます。つまり、温かさと冷たさ、柔和さと鋭敏さが共に訪れるのです。

メインディッシュは、神明鶏を丹念に焼き上げたもの。厨房ではシェフが炭火の温度、藁の量を調整しながら、丁寧に仕事を進めていました。

商店街の散策中に山から聞こえてくる鳥たちのさえずり。Azumiの食事を頂いている時に漂ってくる、厨房から溢れ出てきた芳醇な香り。食材の食感や温度。海上で受けた冷たい風によって硬直した身体の感覚。yubuneの湯に浸かり身体が解れる感覚。

冬は私たちの感覚を研ぎ澄まし、五感をより深く感じさせてくれるのです。

*池田みやげ店:瀬戸田周辺で採れた様々な柑橘を販売するお店