About Us

Azumiは、Amanをはじめ多くのホテルブランドを立ち上げてきた世界的なホテリエ、エイドリアン・ゼッカ氏によって創設された旅館です。

ジャーナリストからホテリエへと転身したゼッカ氏が得意とするのは、土地に宿るエッセンスを具現化することにあります。

そしてもうひとつ、ゼッカ氏には彼独自の「場」を創り上げる際の見立ての方法があります。それは端的に説明するには難しい、掴みどころのない、彼特有の気持ちや感覚です。

「Azumi」はその土地に宿るエッセンスが、ゼッカ氏が大切にしてきた気持ちや想いを通じて、宿として立ち現れた場所なのです。

エイドリアン・ゼッカが語るAzumi

人生について多くの事柄を学ばせてくれたTime誌に在籍していた頃、1956年から1958年まで記者として来日したことがありました。日本は当時からとても好きな国で、滞在していた2年間、私自身とても成長できたと思っています。

少し遡りましょう。私の生まれはインドネシアで、当時はまだ独立前でオランダの一部でした。ジャーナリストの仕事に就きたいと考え始めたのは15歳の頃。その後、アメリカに渡り、20歳でコロンビア大学の修士課程を修了し、タイム誌に入社しました。

ついでではありますが、Time誌を離れた後、私が最初に始めた会社、Asia Magazine の発足理由についてもお話ししましょう。Time誌で働いていた間の6年半で、私はインドやタイにも派遣されました。第二次世界大戦後、徐々にアジアの国々が独立していき、植民地時代が終わりつつあ った時期です。1945年から1949年までの4年間でアジアが新しくなり、全ての国が独立しました。

その頃から、アジアの教育されたエリート層はハイブリッドとなり、アジア人でありながらも文化的には西洋人でした。植民地時代に彼らの多くは西洋の大学に通っていたため、その影響が色濃く反映されたのです。ベートーヴェンやシェイクスピアは分かるのに、自国の音楽や文学について尋ねると、ほとんど何も知らない。唯一、植民地時代がなかったタイでさえ西洋化されていました。それを目の当たりにした時、自分自身に何をするべきかを問うたのです。

その答えがアジア人にアジアについて教えるための文化誌の発行でした。1960 年の10月1日、Time Magazineに辞表を出しました。意を決して、考えを行動に移した日です。

インドネシア、アメリカ、キューバ、アジア諸国、そして日本。各地で色々なことを学びましたが、日本の旅館でのおもてなしは、その後、一度も忘れたことがありません。そこには何ものにも代え難い温もりがありました。今でも日本の同僚たちに、何度もその素晴らしさを伝えているほど感動したのです。

しかし、随分前からその核は失われてきていると感じています。現代の人々は、素晴らしい接客、おもてなしに対しての感激、感心がとにかく薄い。かつての生活様式に共感できないようです。もっとはっきり言ってしまえば、必要がないのでしょう。

日本に初めて来た頃、関わりのあった家族はどこも「お気に入りの旅館」をもっていて、そこは彼らの人生を豊かにする存在でした。日常から抜け出し、年に何度も訪れるリトリートとしての場所ですが、彼らは滞在中、特段、何をするわけでもありません。お昼も外出しないし、お風呂に入って時間を過ごすくらいです。夜ご飯を嗜む程度でしょう。でも、それで良いのです。

多くの旅館は家族で運営されていて、その全員が必ずそこで働いているわけではありませんでしたが、家族経営というのが大きな特徴でありました。 それが私が思う旅館の核。新しい社会の在り方や生活様式の変化に対する敬意はもちろんありますが、今では、あらゆる場所で、かつての有り様は変わってしまっています。

今回の試みは、その変わってしまった生活様式や社会のあり方に、特別な感覚を再構築することです。ホテル業では一定のサービスが求められますが、そこにはふたつの要素があります。ひとつは何が為されるか、もうひとつはどのように為されるかです。効率ではなく、求められるのは温もり。現代において、以前の家族経営を基盤としたおもてなしは正当化できるのか? 分からないけれども、私はできると信じています。だからこうして今、瀬戸田にいるのです。

朝ごはんが予定時間に提供されるか、スタッフが笑顔でそれを提供してくれるか、という話ではありません。もっと複雑な話です。スタッフ自身の感覚からにじみ出るサービスが、おもてなしの本質なのです。つまり気持ちの問題。それは言葉では言い表せられない。わずかな所作や態度です。

教えて通じるかどうか分かりません。さらにはお客様にも伝わっているかどうかも、その 時は分かりません。唯一 、その答えがわかるのは、お客様が再び泊まりに来てくれた時です。一度や二度だけでなく幾度も幾度も、そう、先人たちが愛した「お気に入りの旅館」のように。

Azumi Setodaについて

地球は海があったおかげで発展を遂げてきました。当たり前のことですが、そのことを瀬戸田に来て改めて痛感しました。その印象はもしかしたら安曇族が抱いたものと同じだったかもしれないと、過去に当てはめることはできるかもしれませんが、実際は正しくありません。 同じ土地にいたとしても人が違うのですから。

例えば火事があったとします。その現場に新聞記者が3人訪れたとしても、三者三様の記事になるはずでしょう?何を感じ、どう言葉にするかは個々人に委ねられています。

何故この場所が好きか、何故感動したのか、といった問いは典型的な質問ですが愚問でもあります。感情は明確に言葉で表現できるものではありません。言葉だけでは捉えようがないのです。

Azumi Setodaの前身は、もとは製塩業や廻船業を営んでいた堀内家が暮らした築140年の邸宅です。この建物に再びあかりを灯すにあたり、数奇屋造りの建築家・三浦史朗氏と共に、元の建物で使われていた木材や石材、作庭や漆の要素を拡張させ、現代の解釈で瀬戸内の風土と調和する素朴な美に焦点を当てました。

この瀬戸田の場所で、かつて堀内家が大切な客人を迎え入れていた風景を想像しながら、私が感銘を受けた温かなおもてなしの形をAzumiで模索し、体現していきます。